新しい・お墓のデザイン・出会いと別離の物語 by 丸谷博男

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2010年 04月 10日

沖縄の墓「亀甲墓」ほか

亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか、かみぬくー(亀の甲)ばか)は、沖縄県に多い墓の形式のひとつ。沖縄本島でも中南部によく見られる。この他に破風型(破風墓)、家型(屋形墓)というのが、沖縄県に多い墓の形式であり、本土にあるような四角柱形の石の墓はあまり見られない。
一般に緩やかな斜面に多く見られ、亀の甲羅状の石の屋根の下に、畳にして4畳から大きい場合は8畳くらいの石室が設けられている。
亀の甲羅状の屋根が覆う部分は、母の胎内、そこから人が生まれてきた出生以前の胎内を意味している。中国の易経の世界観では、人の一生が、誕生以前の漆黒の闇を黒冬し、青春(青年期)、朱夏(壮年期前期)、白秋(壮年期後期)を経て、老い衰えて目も見えず、耳も聞こえなくなると、再び死の闇に戻る。これで一生の円環が閉じるのだが、この四つの季節に方位の東西南北が当てられ、それぞれを四聖獣が守護するといわれ、北の玄冬(老年期)に充てられているのが、伝説上の亀の一種、玄武であることから、母体の中の闇の世界を亀の甲羅で覆ったのではないか、と考えられる。
こうした墳墓は沖縄県の他に台湾、香港、中国本土では福建省など中国南部に多くあり、大陸からの伝播ではないかと見られている。
古来日本列島全体に風葬の習慣があったが、沖縄県ではこの習慣がこの墓と融合し、死後数年間は遺骸を石室内に放置し、数年後に親族(特に長男の嫁)で洗骨して改めて骨壷に納骨して石室に収めることから、石室内部は広く設けられている。近年では沖縄県でも本土同様に火葬するケースが多くなっていることから、小規模な亀甲墓も見られるようになってきており、集合霊園に骨壷が納められる程度の小さなものが設置されることも増えてきている。本土でも、移住先に墓所を設けた沖縄県出身者が小規模、もしくは一般的な墓石サイズの小さな亀甲墓を建立した例がある。
春の彼岸には、各地で馳走を用意して、その家の亀甲墓の前で歓談しながら食事をしたり飲酒をしたりする習慣(清明祭)が残っている。
これを墓と知らない人たちにとっては、一見防空壕や掩蔽壕(トーチカ)のようにも見え、第二次世界大戦(太平洋戦争)の最中、アメリカ軍が軍事設備と誤認して砲爆撃を浴びせたこともあったという。日本軍は実際に簡易なトーチカや指揮所として利用し、住民も防空壕や避難所として使用した。中には、砲爆撃を逃れてこの中に避難したものの、軍事目標と誤認されていたがために砲爆撃の優先標的とされて攻撃を受け、一家全滅の憂き目に遭った、という悲惨な例もあった。
なお「夜になると入り口の戸が開く」という伝説が沖縄では古くから伝わっているが、今のところ確たる目撃例は無い。
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# by ohakadesign | 2010-04-10 10:28 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 10日

日本における墓制(沖縄・北海道などに例外あり)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■柳田民俗学の解釈とその問題、改善点

日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。) そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。
しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を
1.遺体の処理形態(遺体か遺骨か)
2.処理方法(埋葬か非埋葬か)
3.二次的装置(石塔の建立、非建立)
の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。
なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。風葬も参照(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する)。宮古島、石垣島には、崖下墓があり、宮古島市島尻には3つの郭がある、石組み、グスクで囲った大きな墓(長墓)があり多数の白骨があるが祭祀が行われたかは不明である。最近科学のメスが入れられつつある。

■近代以降のお墓 [編集]

住宅街に囲まれた都市部の墓地(明石市)
戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などで墓を建てるケースも多かったが、戦後は、基本的に「○○霊園」などの名前が付いた、地方自治体による大規模な公園墓地以外は、お寺や教会が保有・管理しているものが多い。都市部では墓地用地の不足により、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式が登場している。なお、地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が掛かることがほとんどである。金額については、その設置者により異なる。
人によっては生前に自らの墓を購入することがある。これを寿陵(寿陵墓)、逆修墓という。また、自らの与り知らぬ所で付与される形式的な没後の名を厭い、自らの意思で受戒し、戒名を授かることもある。この場合、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別される。
現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主であるが、土葬も法律上は禁止されていない(一部地域の条例を除く)。詳しくは土葬を参照。

■現代の墓地における行政 [編集]

現代における墓地(ぼち)は、墳墓(ふんぼ)を設けるために、墓地として都道府県知事の許可を受けた区域をいう。なお、「墳墓」とは、死体を埋葬し、または焼骨を埋葬する施設である(墓地、埋葬等に関する法律第2条)。なお、墓地についてその他地方税法などで優遇されているものもある。
墓地、埋葬等に関する法律 [編集]
墓地は、公衆衛生上その他公共の福祉の見地からいろいろな行政上の規制を受ける。
1.墓地の経営には、都道府県知事の許可が必要である。
2.墓地の経営者は管理者を置き、管理者の本籍、住所、氏名を墓地所在地の市町村長に届け出なければならない。
3.墓地の管理者は、埋葬等を求められたときは、正当な理由がなければ拒否できない。
4.都道府県知事は、必要があると認められるときは、墓地の管理者から必要な報告を求めることができる。
などである。

■その他の法律

相続税法(国税)
祭祀財産(墓所・仏壇・神棚など)については相続税について課税財産と扱わない(非課税)。純金の仏像など純然たる信仰の対象とは考えにくいものは課税財産となる。
地方税法
墓地に対する固定資産税は非課税。
刑法
墓地に対する不敬行為等は刑法第188条、第189条により処罰される。(礼拝所及び墳墓に関する罪を参照)
民法
墳墓の所有権は、習慣に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継するものとして特例を設けている。
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# by ohakadesign | 2010-04-10 10:23 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 10日

復元され博物館に展示されている木製家型墓=宜野座村立博物館

木製家型墓を復元 変遷研究で「貴重」2009年11月10日

【宜野座】沖縄で過去に使われていたが、現在はほとんど残っていないといわれている「木製家型墓(いえがたぼ)」の一つで、宜野座村漢那に現存していた墓がこのほど復元され、同村立博物館に展示されている。
同村教育委員会で博物館・文化財係の知名定順参事は「沖縄の墓の変遷を知る上で非常に貴重なもの」と話している。
 
漢那にあった墓は、年代測定の結果、約600年前に伐採したチャーギ(イヌマキ)で造られており、中には170体以上の人骨と364点の装飾品、日用品などの遺物が安置されていた。
墓は風化が進んでおり、復元の際に半分ほど元の木材が利用された。元の場所には複製が置かれている。
 
木製家型墓はコンクリートや石造りの墓が普及する以前に県内で使われており、王族など身分の高い人物の墓として利用されていたという。
現存している例が少ないため、使用年代やルーツなど不明な点が多い。
 
漢那の木製墓は、集落東部の森の中にある洞穴内にあったもの。
この場所は「ウェーヌアタイ」と呼ばれ、14世紀ごろにかじ屋集団が所在していた場所だというが、なぜそこに木製墓が置かれていたのか、かじ屋との関連性があるのか、などははっきりしていない。
 
知名参事は「県内の博物館でも木製家型墓を展示しているのは宜野座村だけ。
この貴重な墓をぜひ見に来てほしい」と来場を呼び掛けている。
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# by ohakadesign | 2010-04-10 10:17 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 10日

Brion Family Cemetery by カルロ・スカルパ

webからの写真を集めてみました。
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# by ohakadesign | 2010-04-10 08:55 | ❏お墓のデザイン・世界
2010年 04月 10日

イタリア霊園紀行 by Copyright(c) 霊園墓石のヤシロ 2007 All Rights Reserved.

http://www.yasiro.co.jp/blog/world.htmlからの引用です。

ヨーロッパ霊園視察旅行3ヶ国目イタリアでの2日目は、カルロ・スカルパという建築家がデザインしたブリオン・ベガ墓地です。この日も、雲ひとつない「ベニス晴れ」の一日でした。ブリオン・ベガ墓地は、ベニス本島から北へ車で2時間ぐらいのところにある、トレビゾという田舎町のサン・ヴィトーというところの町の墓地にあります。ここに眠るジョゼッペ・ブリオンという人は、ラジオ職人から一代でヨーロッパを代表する家電メーカーのブリオン・ベガ社を築いた人です。ポータブルテレビやラジオが有名で、これらの復刻版は、日本でも販売されています。ブリオン・ベガ墓地は、ジョゼッペが亡くなった後、妻のオノリーナが、当時、ヨーロッパで脚光を浴びていたカルロ・スカルパに依頼し、1969年に設計がはじめられました。

カルロ・スカルパは、1906年にベニスに生まれた人で、20歳の時に王立ベネチア美術アカデミーを卒業、ベネチア建築大学に就職しますが、実務経験不足などの理由で建築士資格を取得できず、ベネチアンガラスのデザイナーとしてスタートした異色の建築家です。スカルパの作品は、サン・マルコ広場にあるオリベッティーのショールーム(現在はギャラリー)やベネチア建築大学正門などが有名です。この後紹介するブリオン・ベガ墓地にも見られるように、ディテールと職人技にこだわったデザインが素晴らしい、私の大好きな建築家の一人です。

ブリオン・ベガ墓地へ続く田舎道は、ここでも天に伸びるような糸杉の並木が続いています。これは、前回紹介したお墓の島「サン・ミケーレ島」と同じです。イタリア人のお墓に対する心象風景のような気がします。サン・ヴィトーの町の墓地は、一見普通の墓地なのですが、中に入ってみると、まるでRC建築のモダンな家の玄関のようなブリオン・ベガ墓地の入口が、他のお墓と並んで建っていて、はっと息をのみます。でも、決して不釣り合いな突出したものには見えません。スカルパは、ブリオン・ベガ墓地をつくるとき、周辺の環境や他のお墓との調和を大切にしたそうです。


ブリオン・ベガ墓地は、ブリオン家一族のお墓なのですが、お墓というより庭園という方がぴったり来るようなつくりになっています。墓地への入口になっているエントランス棟は、天と地、太陽と月、男と女など、陰陽の象徴であり、中世キリスト教時代には信仰の対象となったシンボリックな二重の輪があります。この二重の輪は、礼拝堂など様々なところに使われています。墓地の中は、芝生広場・疎水・蓮池で構成されていて、その中に、ブリオン夫妻のお墓をはじめ、礼拝堂や一族のお墓などが美しく配置されています。ここまでくるとランドスケープと言っても過言ではありませんね。まるで、ひとつの庭園を見ているようでした。


驚いたのは、物凄く日本的なところです。蓮池もそうですが、その中にある中央に穴のあいた十字形の島のようなものは水琴窟なんです。疎水から蓮池に流れ込む水が、オーバーフローして穴の中に落ち、美しい音色を響かさせます。礼拝堂の横には、モミジが美しい赤い葉をつけ、きれいに刈り込まれたツゲの木の緑とのコントラストが、懐かしい日本の風景を彷彿とさせます。また、礼拝堂の内部には、日本の障子をイメージしたようなドアやどう見ても屏風に見える扉があります。礼拝堂の入口にある水栓(浄め水?)も二重の輪を取り入れてデザインされていますが、家紋のようでとても日本的です。それもそのはず、スカルパは、日本の美に物凄く影響されていて、日本に何度も訪れ滞在しています。そして、1978年11月に仙台で亡くなっているのです。こんな予備知識もなく、面白いお墓があるということだけで、はるばる日本からやってきた私たちは、この話を聞いた時に、日本とイタリアの間を運命の糸で結ばれていたような気がしました。


スカルパが設計したブリオン・ベガ墓地は、ほんとうに素晴らしい。樹木と芝生と水とRC建築の組み合わせ、アールデコ様式の幾何学模様を取り入れたディテール、遊び心あふれるアイデア。現代社会で霊園開発を行っている私たちからしてみても感心したり驚いたりの連続です。1969年に設計がはじめられたブリオン夫妻のお墓の前には、ふたつの水盤がつくられています。ひとつの水盤から水が湧き出て疎水に流れ込むようになっていたのですが、ブリオン夫人が亡くなった2002年に、もうひとつの水盤にも水が通されたそうです。また、スカルパは、墓地の中に芝生広場をつくっています。ここは将来、子供たちが遊ぶ場所にしたいと話していたそうです。時の流れとともに起こりえることを想定した環境のつくり込みです。ひとつのストーリーに基づいて、ゆっくりと環境が姿を変えて行くのです。これは、私たちが霊園開発を考える時に最も大切にすることです。今から37年前に設計が始まった墓地にも、この考え方が取り入れられていたことは、私たちにとって驚きであり、うれしい発見のひとつでした。


ブリオン・ベガ墓地では、もうひとつ、うれしい発見をしました。礼拝堂へ続く道から芝生広場に上がる階段ですが、面白いデザインがされていました。一見上がりにくそうなのですが、人の歩幅を考えてあるため、とても上がりやすいのです。それと、階段を上がる時の足音が音階になって響くのです。スカルパは、子供たちが芝生広場に遊びに行く時に、この音を楽しむ姿を思い浮かべていたのでしょう。ブリオン・ベガ墓地では、才能のある人間が、お墓というものに真剣に取り組むと、万物を調和させながら、ひとつのストーリーの中で、時の流れとともに変化して行く環境をつくりだしてしまうことを目の当たりにしました。日本で亡くなったスカルパのお墓は、この墓地の片隅にひっそりとたたずんでいます。スカルパは、自分自身もここで眠ることをストーリーの中に入れていたかのようですね。

スカルパのブリオン・ベガ墓地は、ほんとうに凄いです。でも、遠い!!町から町を車で走り抜けて行くのですが、だんだん家が少なくなって、大きくなって、農場になって行くのです。そして、最後はイタリアの田園風景が広がります。「ほんとうにあるのかな?」という気になりますよ。でも、墓地には陽気な管理人さんがいます。イタリアの気の良いおじさんという感じの方で、私たちが行った日も、グラッパ(ワインの搾りかすからつくる強いお酒)の仕込みをしているということで良い顔色でした。墓地を締める時間までいてくれたら、自慢のグラッパを持って来るから一杯やろうと言ってくれましたが、ここで呑んじゃうとベニスまで帰れないからとお断りすると残念そうでした。次回は、いよいよヨーロッパ霊園視察旅行の最後の都市、パリです。個人主義と階層社会が確立されている、歴史と芸術の都パリのお墓事情。どんな話が飛びだすか楽しみにしておいてください。
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# by ohakadesign | 2010-04-10 07:58 | ❏お墓のデザイン・世界