新しい・お墓のデザイン・出会いと別離の物語 by 丸谷博男

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カテゴリ:❏お墓のデザイン・日本( 5 )


2010年 04月 11日

日本の墓の歴史 その2/お墓sosのホームページより

■原始時代の墓

日本のお墓の歴史は、旧石器時代に地面に穴を掘って遺体を埋めただけの簡単なものから始まりました。 
縄文時代、弥生時代と時代が進むにしたがって、人々に身分の格差や弔いの文化が生まれ、お墓の形式も変化していきます。

■縄文時代の墓

縄文時代の集落遺跡を発掘すると、集落の入り口付近や、集落(村)から港に通じるメインストリートの両脇に、埋葬スペースがあるそうです。 
また、小さな子供や赤ちゃんの遺体は住居のすぐ側に埋葬されていました。
まだ死を「穢れ」と考える思想が大陸から入ってくる前、日本人は、死者をずっと身近に、自分達と共に生きるものとして考えていたことが窺えます。 
もしかすると、神様になって自分たちを守ってくれるものと考えていたのかもしれません。
縄文時代には、遺体を埋葬した場所(お墓)に特別な盛り土をしたり、印をつけるようなことは行われていませんでした。「誰々家のお墓」「何々家のお墓」のように、お墓を区別するのではなく、お墓を集落(村)全体として考える文化があったのでしょう。

■弥生時代の墓

弥生時代になると、身分の高い人を副葬品とともに簡単な棺に納めて、盛り土をした墳丘墓に埋葬することも行われるようになります。一般の庶民も、盛り土は無しですが、お棺に遺骨を納めるようになってきます。
死者がいつまでも生者と一緒にいるわけではなく、「死後の世界」のようなものがあると考える文化の芽生えではないでしょうか。
しかし、お墓の位置は相変わらず集落の入り口です。 
集落(村)への出入りのたびに、お墓に向かい合い、礼拝しながら日々暮らしたのではないかと言われています。

■中世の墓

中世の武士の世になると、質素さを好む禅宗が仏教の中心となり、鎌倉後期〜室町時代にかけて中国から位牌と戒名の習慣も伝えられます。

■近世の墓

江戸時代初め、キリスト教禁教のために檀家制度が制定され、庶民も含めた全ての人が仏教寺院の檀家として組織されました。神道のお家でも、神仏習合と言って当時の神道と仏教は一つでしたから、まさに全日本人がお寺に所属し、仏教式のお墓を建てるようになったのです。

■近代の墓

明治時代に入ると、仏教と神道が明確に区別されるようになり、神道は国家神道として再編されました。それに伴って、神道式のお墓・お墓参りの儀式などが改めて作られました。また、キリスト教を初めとする他の宗教が日本に入ってきて認められたのもこの時期で、キリスト教式のお墓も作られるようになってきました。

■現代の墓

第二次世界大戦後、身分制度が無くなり、個人主義が浸透した現代日本では、宗教にとらわれない斬新なスタイルのお墓(デザイン墓)が脚光を浴びています。一方で、人口増加と都市圏への一極集中に伴って墓地不足も深刻となり、永代供養墓や納骨堂形式のお墓も増えてきました。 
また、戦前のような家督制度が無くなったため、友人同士・兄弟姉妹同士など、以前では考えられなかった組み合わせでお墓を共有することも珍しくなくなってきています。
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by ohakadesign | 2010-04-11 11:56 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 11日

日本の墓の歴史 その1

日本石材産業協会のホームページより
http://www.japan-stone.org/qa/index.html#pos1

■お墓の歴史ー1

スツーパの話:スツーパというのはインド語で、塔という意味です。それが中国に入って卒塔婆と音訳され、やがて塔婆となり、さらに略されて塔となリました。いま私たちが使っている石塔の塔という言葉はインド語なのです。また木で作られた塔婆供養の塔婆も同じことです。つまり石塔を作って供養をするということは、インドから仏教が伝わってくるのといっしょに日本に入ってきたことを示しています。
また供養塔は、最初は文字通り塔の形をしていて、現在の棹型のものではありませんでした。スツーパがはじまりだったことで判る通り、宝塔がもとの姿にいちばん近いものです。スツーパを源にして、そのあと宝篋印塔や五重塔や卵塔が創り出され、日本特有の墓の型とされる五輪塔もスツーパにおさめた仏舎利の瓶の姿に似せて造り出されたものとされています。
現在いちばん多い角柱型の石塔は、長い時代を通して創造されてきたものですが、中国の位牌型の石碑に影響されている点が多いと思われます。
石碑つまり石塔は、その伝わってきたかたちを見てもわかるとおり、仏教との縁が深いわけですが、何のために石碑を建てるのかというと、昔と今とでは少しずつ変化してきているように思えます。といいますのは、昔は仏を供養し、その功徳によって死者が成仏するという考え方に立っていましたが、今では、仏を通り越して、死者だけを中心に置き、仏・法・僧の三宝を敬うことを忘れがちになっています。
釈迦が亡くなって、弟子や信者たちが造った塔(スツーパ)は、必ず仏舎利(釈迦のお骨)がおさめられています。それは仏を敬うためにそうしたものなのです。
仏教の言葉のなかに六波羅密という言葉があり、それは信者が実践しなければいけない行いとして六つのことをあげているのですが、その中に「布施」というのがあります。仏や僧に布施する心が成仏への一つの道だったのです。お墓を建てる心には、そういう昔からの布施の心を忘れずに持っていたいものだと思います。

■お墓の歴史ー2

古墳について:古墳は日本古来の埋葬のありかたです。しかし、古墳ときくと、天皇や豪族の築いた大きいものをすぐ思い浮かべます。たしかに古墳は大きいものが多いことは事実ですが、お墓であることには間違いないのです。

『古事記』のなかに"黄泉(よみ)の国"のことを書いた神話があります。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の話ですが、昭和の初めに生まれた方は戦前かならず耳にしていてよくごぞんじだと思いますが、二人の国造りの神さまの夫婦愛と古墳のことをよく想像させるエピソードなのでとリあげてみます。

二人の夫婦の神は、日本の国土を生んだり、山や海を治める神を生んだりして国造りをしていきますが、いろいろの神を生むうちに火の神を生みます。妻の伊邪那美は火の神を生んだために、それがもとで火傷を負い、病に臥して、やがて亡くなります。その妻の屍を出雲の国と伯伎(ほうき)の国の境の比婆山に埋葬します。
それから幾日かが経ちますが、それでも伊邪那岐命は妻の命のことが忘れられず、死者の国である黄泉の国へ訪ねていきます。そして、
「まだ国造りは終っていないから、もう一度かえってくれ」
といいます。
「黄泉の国の神に相談しますから、しばらく待っていて下さい」
と伊邪那美は答えます。
が伊邪那岐命は待ちきれずに、「さし戸」をあけて中に入ります。 するとそこには蛆(うじ)がたかって見るかげもない妻の姿があり、頭から足先まで雷(いかずち)がとリついています。命は驚いて黄泉の国から逃げかえります。

この神話は、埋葬する者の心と、古墳のありかたをよく伝えていると思います。
「さし戸」というのは、古墳の横穴への入口に設けれた石か土の蓋のようです。
古墳ときくと奈良・大和とすぐ思い浮かべますが、北は岩手県から南は鹿児島まで広い地域にあります。それに大きさもさまざまです。親戚縁者や地域ぐるみで力を合わせて造ったものもあるようです。死者への思いと葬る心は、墓の歴史とともに生きています。

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田村石材のホームページよりttp://www.tamuseki.co.jp/rekisi.htm

日本における最初の墓石は「千引石」(ちびきいわ)と言われています。
神話によると、千引石は「道反の大神」(みちかえしのおおかみ)とも言われ、女神イザナミの死後、彼女がこの世に出てくるのをさえぎって、もと来た黄泉の国へ追い返す役目を果たすべく、イザナギが千人でやっと引き動かす事のできるほどの大きな「千引石」であの世との出入り口を塞いだとされています。
また、イザナミとイザナギが千引石をはさんで「事戸(決別)を渡す」シーンは、現在のお墓参りでの「亡き故人との対話」の原点となっています。

縄文時代の遺跡では、青森県の三内丸山遺跡があります。この遺跡では道幅15メートルの道の両側に2列に並ぶ約100基の集団土坑墓が発見されました。5千年前の道幅15メートルの道ですから、おそらくは当時のメインストリートであった事と思われます。生活に密着した重要な道の両脇にお墓を作ったという事は、縄文時代からすでに死者を敬い、大切にしていたということになります。
弥生時代の遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、北九州一体に特有の埋葬法である「甕棺」(かめかん)が2千基以上も出土し、2列になった列状墓群がみつかり、古墳時代の原型とみられる墳丘墓が列状墓群の北側にありました。これらは集落の中にあり、居住区から北側に列状墓群、更に墳丘墓、そして出入り口、そこから道が続いていました。当時の集落の人々も三内丸山遺跡の人々と同様に死者を敬い、大切にしていたと考えられます。

やがて仏教が伝来し国家仏教として確立するころになると遺体や遺骨は「死穢(しえ)」(けがれたもの)とされ都市部から排除されていきました。続く平安末期から鎌倉時代には浄土思想に基づいて死者を供養する観念が形成されます。この頃、真言宗中興の祖・覚鑁上人(かくばんしょうにん)は密教と浄土の同一性を説き代表作「五輪九字明秘密釈」を書き上げます。この原理・理論から「五輪塔」が生まれました。

江戸時代、徳川幕府がキリシタン禁圧のため、百姓、町人の全てをいずれかのお寺の檀家になることを強制しました。(宗門人別帳)これ以降、仏教、お寺と日本人の距離が近づきました。
「死」をお寺が葬儀という形で担うようになったのもこれと密接な関係があると言われています。

明治維新以降、国家神道の確立とともに祖先祭祀が道徳的基礎として位置付けられます。明治民法では「家制度」を定着させる為、墳墓(墓地)は祭祀財産として家督相続の特権とされました。これにより、ひとつのお墓に何人も(親類)が入る「家族の墓」が一般的になりました。
明治以前は財力のある商人や武士を除き庶民は山に遺棄したり、河や海に流すのが普通でしたが、伝染病予防法が制定され火葬が普及し始め、やがて墓地(墳墓)は公衆衛生面や都市計画の観点から国家による法的な規制を受けるようになりました。

そして現在の日本では多くの宗教、宗派が存在し、葬送の多様化、核家族化、により「家墓」の存続が難しくなってきました。また、都市部では墓地の不足に伴い土地が高騰しお墓を建てるのが困難になってきています。中には納骨堂への安置、散骨による自然葬など、お墓そのものを拒絶する傾向もあります。

日本人が数千年前の古来より死者を大切にし、お墓に埋葬して供養する。この歴史を振り返り、いま一度お墓の重要性について見直す必要があるかもしれません。

■自然葬について

平成3年「葬送の自由をすすめる会」会員によって相模灘で散骨(同会では環境を守る視点から自然葬と呼びます)が行われました。
遺骨遺棄罪や墓埋法(墓地、埋葬等に関する法律)の問題も、法務省や厚生省の見解では「節度をもって行われる限り問題は無い」と発表し、今では会員の数も増えてきています。
ただ、法務省のこの見解は墓埋法が施行された昭和23年当時の世相では散骨(自然葬)の概念が無い時代ですのでそれに対するガイドラインが定められていません。散骨は許可されているわけではなく容認せざるをえないといった状況のようです。

自然葬は海と山で行われ、遺骨を粉末状にして撒きます。海では環境問題に配慮しお供えも花びらのみとしています。山では会に賛同する個人、法人の所有する山林(土地)で行われます。
しかし、将来的にその土地を転売せざるをえない状況になったときや、その土地の周辺住民や周辺農家などの反対など、問題は残されています。自分の意志を通す為に他者への配慮が欠けてしまう事は道徳上からも好ましい事とはいえません。

生き方の延長線上として個人の意思を尊重した考えですが、残された遺族が「心のよりどころ」としてお墓を求めるケースもけして少なくありません。

■ 散骨禁止条例についての記事平成17年3月17日


山林などで焼いた遺骨をまく「散骨」を罰則付きで禁止する条例が16日、北海道長沼町議会で賛成多数で可決、成立した。散骨について規定する法律はなく、条例での規制は全国でも珍しい。施行は5月1日。
 条例は、ごみの投棄などとともに、墓地以外での焼骨の散布を禁止。(1)散布した違反者で町の措置命令に従わなかった者は2万円以下の罰金または拘留、もしくは過料(2)散骨の場所を提供した業者は6月以下の懲役または10万円以下の罰金としている。
 長沼町では昨年春、散骨業者が私有地の山林で木の根元に散骨する「樹木葬」事業を始め、9月に1件を実施。近隣の農作物への風評被害を懸念した住民らが反対運動を続けていた。
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by ohakadesign | 2010-04-11 11:49 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 10日

沖縄の墓「亀甲墓」ほか

亀甲墓(かめこうばか、きっこうばか、かみぬくー(亀の甲)ばか)は、沖縄県に多い墓の形式のひとつ。沖縄本島でも中南部によく見られる。この他に破風型(破風墓)、家型(屋形墓)というのが、沖縄県に多い墓の形式であり、本土にあるような四角柱形の石の墓はあまり見られない。
一般に緩やかな斜面に多く見られ、亀の甲羅状の石の屋根の下に、畳にして4畳から大きい場合は8畳くらいの石室が設けられている。
亀の甲羅状の屋根が覆う部分は、母の胎内、そこから人が生まれてきた出生以前の胎内を意味している。中国の易経の世界観では、人の一生が、誕生以前の漆黒の闇を黒冬し、青春(青年期)、朱夏(壮年期前期)、白秋(壮年期後期)を経て、老い衰えて目も見えず、耳も聞こえなくなると、再び死の闇に戻る。これで一生の円環が閉じるのだが、この四つの季節に方位の東西南北が当てられ、それぞれを四聖獣が守護するといわれ、北の玄冬(老年期)に充てられているのが、伝説上の亀の一種、玄武であることから、母体の中の闇の世界を亀の甲羅で覆ったのではないか、と考えられる。
こうした墳墓は沖縄県の他に台湾、香港、中国本土では福建省など中国南部に多くあり、大陸からの伝播ではないかと見られている。
古来日本列島全体に風葬の習慣があったが、沖縄県ではこの習慣がこの墓と融合し、死後数年間は遺骸を石室内に放置し、数年後に親族(特に長男の嫁)で洗骨して改めて骨壷に納骨して石室に収めることから、石室内部は広く設けられている。近年では沖縄県でも本土同様に火葬するケースが多くなっていることから、小規模な亀甲墓も見られるようになってきており、集合霊園に骨壷が納められる程度の小さなものが設置されることも増えてきている。本土でも、移住先に墓所を設けた沖縄県出身者が小規模、もしくは一般的な墓石サイズの小さな亀甲墓を建立した例がある。
春の彼岸には、各地で馳走を用意して、その家の亀甲墓の前で歓談しながら食事をしたり飲酒をしたりする習慣(清明祭)が残っている。
これを墓と知らない人たちにとっては、一見防空壕や掩蔽壕(トーチカ)のようにも見え、第二次世界大戦(太平洋戦争)の最中、アメリカ軍が軍事設備と誤認して砲爆撃を浴びせたこともあったという。日本軍は実際に簡易なトーチカや指揮所として利用し、住民も防空壕や避難所として使用した。中には、砲爆撃を逃れてこの中に避難したものの、軍事目標と誤認されていたがために砲爆撃の優先標的とされて攻撃を受け、一家全滅の憂き目に遭った、という悲惨な例もあった。
なお「夜になると入り口の戸が開く」という伝説が沖縄では古くから伝わっているが、今のところ確たる目撃例は無い。
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by ohakadesign | 2010-04-10 10:28 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 10日

日本における墓制(沖縄・北海道などに例外あり)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

■柳田民俗学の解釈とその問題、改善点

日本における墓制は、柳田国男の民俗学の研究が土台になってきた。柳田系民俗学は、人間の肉体から離れる霊魂の存在を重要視したため、遺体を埋める埋め墓(葬地)とは別に、人の住む所から近い所に参り墓を建て(祭地)、死者の霊魂はそこで祭祀するという「両墓制」が、日本ではかつては一般的だった、としている。(葬地と石塔と隣接させるのが「単墓制」としている。) そのため、遺体を埋葬する墓所はあったが、墓参りなどの習慣はなく、従来の日本では全く墓は重視されなかったとしている。
しかし、このような墓制には批判が出てきている。岩田重則は、『「お墓」の誕生』(岩波新書)の中で、墓制を
1.遺体の処理形態(遺体か遺骨か)
2.処理方法(埋葬か非埋葬か)
3.二次的装置(石塔の建立、非建立)
の3つの基準で分類している。(現在一般的な「お墓」は、「遺骨・非埋葬・石塔建立型」)。墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからであり、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もなかった(「遺体・埋葬・非建立」型)。また、浄土真宗地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかった(遺骨・埋葬/非埋葬・非建立型)。このように、柳田のいう「単墓制」「両墓制」というのは特に「遺体・埋葬・建立型」に限った議論において、葬地と祭地が空間的に隔たっていることの分類に過ぎず、日本全国の多様な墓制の歴史的変遷に対応させるには無理があるとの批判である。
なお、沖縄・南西諸島では埋葬がなく本土の墓制との議論は難しい。風葬も参照(現在でも沖縄の一部では、墓はただの納骨所として、祭祀の対象としていないところも存在する)。宮古島、石垣島には、崖下墓があり、宮古島市島尻には3つの郭がある、石組み、グスクで囲った大きな墓(長墓)があり多数の白骨があるが祭祀が行われたかは不明である。最近科学のメスが入れられつつある。

■近代以降のお墓 [編集]

住宅街に囲まれた都市部の墓地(明石市)
戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などで墓を建てるケースも多かったが、戦後は、基本的に「○○霊園」などの名前が付いた、地方自治体による大規模な公園墓地以外は、お寺や教会が保有・管理しているものが多い。都市部では墓地用地の不足により、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式が登場している。なお、地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が掛かることがほとんどである。金額については、その設置者により異なる。
人によっては生前に自らの墓を購入することがある。これを寿陵(寿陵墓)、逆修墓という。また、自らの与り知らぬ所で付与される形式的な没後の名を厭い、自らの意思で受戒し、戒名を授かることもある。この場合、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別される。
現在の日本では、火葬後に遺骨を墓に収納する方式が主であるが、土葬も法律上は禁止されていない(一部地域の条例を除く)。詳しくは土葬を参照。

■現代の墓地における行政 [編集]

現代における墓地(ぼち)は、墳墓(ふんぼ)を設けるために、墓地として都道府県知事の許可を受けた区域をいう。なお、「墳墓」とは、死体を埋葬し、または焼骨を埋葬する施設である(墓地、埋葬等に関する法律第2条)。なお、墓地についてその他地方税法などで優遇されているものもある。
墓地、埋葬等に関する法律 [編集]
墓地は、公衆衛生上その他公共の福祉の見地からいろいろな行政上の規制を受ける。
1.墓地の経営には、都道府県知事の許可が必要である。
2.墓地の経営者は管理者を置き、管理者の本籍、住所、氏名を墓地所在地の市町村長に届け出なければならない。
3.墓地の管理者は、埋葬等を求められたときは、正当な理由がなければ拒否できない。
4.都道府県知事は、必要があると認められるときは、墓地の管理者から必要な報告を求めることができる。
などである。

■その他の法律

相続税法(国税)
祭祀財産(墓所・仏壇・神棚など)については相続税について課税財産と扱わない(非課税)。純金の仏像など純然たる信仰の対象とは考えにくいものは課税財産となる。
地方税法
墓地に対する固定資産税は非課税。
刑法
墓地に対する不敬行為等は刑法第188条、第189条により処罰される。(礼拝所及び墳墓に関する罪を参照)
民法
墳墓の所有権は、習慣に従って祖先の祭祀を主宰すべき者がこれを承継するものとして特例を設けている。
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by ohakadesign | 2010-04-10 10:23 | ❏お墓のデザイン・日本
2010年 04月 10日

復元され博物館に展示されている木製家型墓=宜野座村立博物館

木製家型墓を復元 変遷研究で「貴重」2009年11月10日

【宜野座】沖縄で過去に使われていたが、現在はほとんど残っていないといわれている「木製家型墓(いえがたぼ)」の一つで、宜野座村漢那に現存していた墓がこのほど復元され、同村立博物館に展示されている。
同村教育委員会で博物館・文化財係の知名定順参事は「沖縄の墓の変遷を知る上で非常に貴重なもの」と話している。
 
漢那にあった墓は、年代測定の結果、約600年前に伐採したチャーギ(イヌマキ)で造られており、中には170体以上の人骨と364点の装飾品、日用品などの遺物が安置されていた。
墓は風化が進んでおり、復元の際に半分ほど元の木材が利用された。元の場所には複製が置かれている。
 
木製家型墓はコンクリートや石造りの墓が普及する以前に県内で使われており、王族など身分の高い人物の墓として利用されていたという。
現存している例が少ないため、使用年代やルーツなど不明な点が多い。
 
漢那の木製墓は、集落東部の森の中にある洞穴内にあったもの。
この場所は「ウェーヌアタイ」と呼ばれ、14世紀ごろにかじ屋集団が所在していた場所だというが、なぜそこに木製墓が置かれていたのか、かじ屋との関連性があるのか、などははっきりしていない。
 
知名参事は「県内の博物館でも木製家型墓を展示しているのは宜野座村だけ。
この貴重な墓をぜひ見に来てほしい」と来場を呼び掛けている。
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by ohakadesign | 2010-04-10 10:17 | ❏お墓のデザイン・日本